hide(ヒデ、本名:松本 秀人〈まつもと ひでと〉[1]、1964年(昭和39年)12月13日[2][3] - 1998年(平成10年)5月2日)は、日本のミュージシャン、ギタリスト、歌手、プロデューサー[3]。神奈川県横須賀市出身[2]。1987年から1997年までX JAPAN(旧名:X)のギタリストとしてHIDE名義で活動[2][3]。1989年にアルバム『BLUE BLOOD』でXのメンバーとしてメジャーデビュー[2]。 愛称は「ヒデくん」、「ヒデちゃん」。身長170cm。血液型AB型。, 1993年より、hide名義でソロ活動も開始し[2]、1996年にはレコードレーベル「LEMONed」(レモネード)を設立[4]。1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver及びzilchでの活動を開始するも、1998年5月2日に急逝[2][3][4]。, 少年時代は肥満から来るコンプレックスのため、内気で大人しい子供であった。小学生のころ、太っている生徒は休み時間に校庭を走らされるという罰があり、その中にhideも入っていた。この頃、深夜ラジオでロックに出会い、「ロックミュージシャンは痩せてなくては」と、ダイエットしたという。学習塾や習いごとに忙しく通っていた。祖父の「松本家から医者を出せ」という命令もあり、卒業文集では「医者になって見離された患者さんを助けてあげたい」と綴った。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。そこにはホンジャマカの恵俊彰も参加していた。UNITEDの横山明裕とは幼馴染であり、互いにプロになって以降も交流があった。, 中学時代、友人のキッカケで、ロックに興味を持ち祖母にギブソン製エレキギターを買ってもらいバンドを組むも活動はしておらず、そのまま県内屈指の進学校の高校へと進学した。高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、横須賀のどぶ板通りに通うようになり、そこで出会った友人らとX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」を組んで活動する。, また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。Xデビュー当初は祖母のサリーを借りてステージ衣装として使用したりしていた。若作りでお洒落な人物であったために、後のファッションなどの基盤となった。高校卒業後に、ハリウッドビューティ専門学校へと進み、卒業して実際に美容院で働いてもいた。「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心し、いくつかのバンドから誘いがあったのをすべて断っていたが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入する事になる。, インディーズバンドの発掘に力を入れ、エクスタシーレコードではバンドリサーチ担当としてLUNA SEAやGLAY、ZI:KILL、DEEPを発掘し、また、自身でもレモネードレーベルを立ち上げZEPPET STORE、VINYL、trees of lifeなどのバンドを発掘した。, テレビやゲームが好きであり好んで視聴したり遊んだりしていた。またコンピュータに強い興味を示しており、90年代前半には、すでにライブでパソコンを使ったギミックを披露していた。1995年には自身で製作したホームページを開設している。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていて、デビュー・シングルの『EYES LOVE YOU』のミュージック・ビデオは、そこから得たアイディアを取り入れている。, また、子供好きでも有名で、弟でマネージャーを務めた裕士に子供が生まれたときには、とても喜んでおり 大きなぬいぐるみを買ってあげたりもしていた。また、1994年のソロツアーでは アンコールで観客の子供をステージに連れてきて、一緒に歌ったこともある。しかし、自身に子供が欲しいかを聞かれると「もし自分に子供が生まれたら、ツアーや仕事で何日も留守にするなんて 絶対に無理だと思うし、全ての情熱を子供に注いで 音楽は蔑ろになってしまうかもしれないから要らない。」「裕士に子供が生まれたから、俺は子供は要らないし、結婚もしない」と語っていた。また「世界一の親バカになる自信がある」と語ったことも。, 中学生の頃、初めて聴いたキッスのレコードに大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。以後は様々なロックを聴き漁るようになり、その中でキッス(特にエース・フレーリー)、ザ・クラッシュ、アイアン・メイデン、ディープ・パープル、ヴァン・ヘイレン、ダムド、レッド・ツェッペリン(ジミー・ペイジ)、ジャパンなどに影響を受けた。BOWWOWの山本恭司ファンではあるが、hideの代名詞となる「モッキンバード」は、同じBOWWOWの斉藤光浩が使用していたのが気になった事がきっかけであると語っている[5]。, Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案した。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史からヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。, のちに有名になるマリリン・マンソンだが、まだ無名時代からhideの大ファンだったという[6]。, Xに加入しての初仕事は「天才・たけしの元気が出るテレビ! メンバーの方や、交流のあったたくさんの方たち、ファンの皆さんも同じ気持ちなのではないでしょうか。 HIDEの方は、TAIJIとケンカしたがっていたようですが、TAIJIが全く応じなかったのです。, YOSHIKIのすっぴん画像は!?目が韓国人??公開したのは仲良しのTOSHI!?. ・事務所:ヘッドワックスオーガナイゼーション ・生年月日:1964年12月13日 パフォーマンス練習や寝ゲロでの窒息はあくまでの噂で、Kiyoshiや弟との喧嘩も関係無い様に思えるHIDEの本当の死因・真相について迫って行きましょう。, HIDEの死因の真相ですが、当時警察が「自殺でなければ「不審死」扱いになる」と言っていた事を弟が自身の著書で述べています。 初めから、惹かれるものがあったのでしょうね。. その誰にも真似できない遊び心に満ちたスタイルは現在活躍しているアーティストにも世代を問わず多大な影響を与えています。 2009年にluna seaと掛け持ちでx japanに加入したsugizoは、生前のhideとどういう関係だったのか?仲や出会いのエピソード、そしてsugizoのx japan加入にまつわるエピソード、sugizoのhideに対するリスペクトの思いなどをまとめました。|もっと知りたいエンタメ情報ならトレタメ! ・本名:松本秀人(まつもと ひでと) Copyright ©  XJAPAN大百科 All rights reserved. "1998 TRIBAL Ja,Zoo" (2005年9月21日), hide 50th anniversary FILM「JUNK STORY」(2015年12月11日), hide FIRST SOLO TOUR '94 『HIDE OUR PSYCHOMMUNITY 〜hideの部屋へようこそ〜』, hide with Spread Beaver appear!! 今でも多くの人々から愛されているX JAPANのHIDE。現在も彼の死因については様々な噂が流れています。死因は自殺だとされているHIDEですが、実弟が語った真相とは一体どんなものなのでしょうか。寝ゲロの可能性、あらゆる事故の理由についてまとめて行きます。, 【増刷決定】「hide word FILE」が大好評につき、発売初日で増刷が決定!全国のセブンイレブン(一部店舗)、セブンネットショッピング、タワーレコードなどセブン&アイグループの各店舗にて絶賛発売中!セブンネットショッピングhttps://t.co/IKQeQUqbkbタワーレコードhttps://t.co/CpmmquJhWq pic.twitter.com/gVqXnIJmeX, ・愛称:ヒデくん、ヒデちゃんなど もちろん、TAIJIが切れた場合は、HIDEが止めていたのだがwww, HIDEが叫び、拳を振り上げるて殴るのか!?と、思いきや、人差し指と中指の2本の指を突き立てて、フロントの人間の鼻の穴に、下からズボッと突っ込んだのですwww, インディーズ時代にTAIJIがXに戻って来たのは、HIDEがいたからと言われています。, 過去の Xの曲は、ほとんど2人でアレンジしていますし、メンバーの中で一番一緒にいたのがHIDEとTAIJIだったのでしょうね。, TAIJIがXを脱退してからは、お互いのスケジュールが合わなくなり、疎遠になっていたようです。. 上記tweetを確認して見ると、「お酒を飲み肩こりの牽引施術を行い泥酔して眠ってしまった事による事故死」と呟かれています。HIDEの死因には「様々な事故」が混ざっているのかもしれません。, 上記動画を確認して頂ければ分かりやすいかと思われますが、HIDEも肩こりの治療の為にタオルを使用して「首吊り健康法」なるものを実践していました。これはファンの間でも有名な話でしょう。 Rich仕様の多機能で沢山のスイッチが搭載されていたが、これらの回路とスイッチは89年中に全て取り外され、後のペイントと同様の1ボリューム、ピックアップセレクター、ダイレクトスイッチのHIDE定番の3点コントロールに改造された。, ダイレクトスイッチをONにすると手元のボリュームノブのメモリの位置に関係なくそれらの回路をカットし、アンプ直結でボリューム10で音が出るという回路である。このスイッチは以降全てのHIDEモデルに搭載されるようになった。, 個性的なペイントの他、歴代メインギターの中で唯一指板のインレイが雲型ではなく菱形のダイヤモンドインレイと呼ばれる形状であった。, 使用期間は2年足らずであったが、当時のXは全曲半音下げチューニングで、レコーディングもライヴもトラブルが起きない限りはこのアメーバ1本で通す事も多く、更にライヴ中にギターを振り回したり、ストラップを片方外して犬のリード代わりに掴みステージ上でギターを引きずり回すなどのパフォーマンスも行うなどかなり酷使していた為、ギター本体がボロボロになってしまい、ペイントへとメインギターの座を引き継ぐ事となった。, 音はHIDE曰く「鉄板に弦を張ってるみたい」と言う程、中音域が出ない固く冷たいドンシャリ傾向の音で、このギターの音の反動で次期メインのペイントに中音域が強く出るモンキーポッド材を採用する事となった。, メジャーデビュー初期に使用していた為、HIDEモデルと言えばこのギターを思い浮かべる人が未だに多い。, 本人が使用していた物はボディ裏にも白色でペイントが描かれていたが殆ど消えてしまっている。, コントロールは改造後のアメーバと同様のボリューム、ピックアップセレクター、ダイレクトスイッチ。, この頃からレコーディングでMG-Xを使用する際のボリューム操作は「音ヌケが全然違う」という理由で、ボリュームノブは使用せず、ダイレクトスイッチONでフルボリュームで録音するようになった。, 以前のメインのアメーバ、初代のアーミーパンサー、その他サブ用のMG-Xなど、改造を加えられたり、仕様変更を繰り返してきた初期MG-Xの集大成とも言えるギターで、HIDE手描きのペイントが完成してからは殆ど手を加えられる事は無く、改造と呼べる物はメインとして使用された期間の晩年にフロントピックアップのコイルタップ用のミニスイッチを1個追加しただけで、あとはフロント側のストラップピンの取り付け位置の変更のみに止められている。, チェリー・サンバーストはサブを含めて数本が製作されている。初号機はネックグリップはUシェイプ。ボディ厚もそれまでのMGより5mm厚くした42mm。初号機のサブとして製作されたものは45mmのボディ厚であった。後に塗装を白くリフィニッシュされ1994年末のX JAPANライブ「白い夜」で使用された。2号機以降はネックグリップをVシェイプに変更している。, チェリー・サンバーストと同様にギブソン・レスポールのサウンドスペックを目指して製作されたもの。このレモン・ドロップのボディは特に厚い45mmで製作。, ボディが厚い分、音も中低音がよく出てHIDE本人も気に入っていたそうだが、他のMG-Xより少し重量が重く、ライヴでの使用頻度はチューニングにより使い分けられ、限定的であった。, 後期のメインギター。1996年の東京ドーム公演で初登場。ネック・グリップはVシェイプを採用。hide曰く「ロリロリのギターでゲロゲロのリフを弾く」をテーマに制作された黄色のボディに赤のハート柄というモデルで、主に「, 1996年の東京ドーム公演で初登場。ドロップDチューニングの曲(SCARS)で使用。, ボディトップにペイントされているロボット(宇宙人?)はアルバム「PSYENCE」のジャケットに描かれていたもの。, ピックアップはサスティナードライバー+ディマジオ DP-159エヴォリューション。, イエロー・ハートの色違いとして製作され、X JAPAN THE LAST LIVEで初登場。「RUSTY NAIL」などのレギュラー・チューニングで使用されていた。, ピックアップはサスティナードライバー+ディマジオ DP-100 スーパーディストーション。, グリーンハートと同時に製作され、当初、LAST LIVEでメインとなる予定だったギター。緑色のボディに文字通り基盤が描かれ、マスターボリュームノブの横に当時のhideのHPのURLがプリントされていた。更に基盤の黄土色の箇所はボディの木目が透けて見えるように塗装されるなど、かなり細部まで拘ったカラーリングであったが、完成したのがライブ本番直前のリハーサルの時で、音を出してみたところ、ボディーの塗装処理の都合で音抜けが良くなかったという理由でメインで使用される事は無く、当日はイエローハートのサブとしてセットアップされていた。6弦にヒップショットDチューナーという、ワンタッチで1音下げられるペグを取り付けていたのも特徴。, またピックアップはイエローハート、グリーンハート、基盤のリアにはディマジオのスーパーディストーション、サイエンスのリアにはディマジオのエボリューションをマウント。, その他にもリアにセイモアダンカンのJBをマウントしたプロトタイプやセンターにシングルコイルを増設したプロトタイプ、ボディ材を変更したプロトタイプ等も存在し、常に理想の音を求めて試行錯誤していた様子が伺える。, 主にレコーディングでの使用を目的に1994年に購入。シリアルナンバーは「9 0297」。PATAの所有する59年製レスポールスタンダードとは2番違いで、全くの同一またはそれに近い時期に作られたもの。, アコースティック・ギター。自宅での曲作りやアコギパートのレコーディングなどで使用。「hideがいつでもギターを弾けるように」と、hideと共に棺に納められている。, "くじら"をベースにhideオリジナルモデルとして製作が進められていたモデル。このモデルの最終調整の打ち合わせ予定日の前日、hideは突然この世を去ってしまった。その後、hide MUSEUM設立に合わせて製作されている。その後、木材をホンジュラス・マホガニーへ変更して限定300本で発売された。, hideが自分で購入し、ボティ両面に写真等を切り貼りしてカスタムした。hide所有の唯一のFender社製ギター。, PSYENCE A GO GOのツアー開始前、フェルナンデスに、「ツアー用にMG以外のギターを用意して欲しい。, 市販のフェルナンデス・JGシリーズをカスタムして製作され、フロントピックアップを撤去し、リアのハムバッカー(ディマジオのエアーゾーンをマウント)に、コントロールは1ボリュームというシンプルなレイアウトにし、クリアピックガードを取り付けたが、どうしてもフロントピックアップを撤去してがら空きとなったキャビティーが気になるという事で、フェルナンデス側が独自にシールドをプラグインするとイルミネーションが点灯するギミックとダミー配線を仕込み、サイバーなルックスのギターとなった。, hide本人はこのイルミネーションを「トレーニングマシーンみたい」と、いたく気に入っていた。, 94年のソロツアー時に使用。Fernandesの製品カタログからオーダーし、ピックアップとピックガードのみ変更。, フェルナンデスHGS-1200(hideシグネチュアモデル・ゲージは009-046)、それ以前はアーニーボール・ハイブリッドスリンキー。, 初期の頃、『BLUE BLOOD』に代表されるような低音弦の速いオルタネイトのバッキングに重きを置き、そのサウンドにも拘り、一時6弦に052という極太の弦を使用していたこともあった。, フェルナンデス・スキャナー(hideシグネチュアモデル)、ジムダンロップ・ナイロンスタンダード0.73mm、ジムダンロップ・トーテックススタンダード0.73mm, 大島暁美「hide BIBLE - OFFICIAL BOOK hideを愛する全ての人へ贈ります」, 荒川正彦「Pink Cloudy Sky - 俺とhideと横須賀ロック・ストーリー」.