第1試合 徳島北×鳴門渦潮 鳴門オロナミンC球場(準決勝) その経験をすべてお伝えします。 質問があれば、何なりと!, 私は、10年以上野球経験があり、高校では硬式野球部キャプテン、大学では全国大会ベスト16を果たしているKENが解説します。, 野球でご飯を食べられる選手なんて稀なんです!私の中学、高校、大学の同期・後輩・先輩で社会人プロなのでご飯を食べられている選手は、約200人中2名。1%です。, 【高校野球】子供にさせてほしいこと2.野球のレベルUPに親子で取り組んでください!. 第73回徳島県高校野球秋季大会第6日は、鳴門オロナミンC球場で準決勝2試合が行われ、鳴門渦潮と鳴門が決勝へ進むとともに秋季四国地区大会への出場を決めた。 ⇨写真特集はこちら.  徳島商は3点を追う六回、6安打を集める打者一巡の猛攻で、5-3と逆転。七回にも1点を加えて突き放したが、投手陣が最後に力尽きた。 おそらく、子供が甲子園へ出場したい!と言ってきたけど、徳島県の強豪高校がわからないと悩んでいるのではないでしょうか。, 実際に、私は、10年以上野球経験があり、高校では硬式野球部キャプテン、大学では全国大会ベスト16を果たしているKENが解説します。, もし、あなたの子供が、徳島県で甲子園を目指そうと考えているなら、ぜひ、この記事を読んでください。, 2013年春、2013年夏、2016年夏は全国ベスト8へ駒を進めている。加えて森脇監督は法政大学マネージャーで培った人脈も屈指。進学・就職には一流大学・一流企業が名を連ねている。, 甲子園へ出場しているチームではかなり少ない部員数です。1年生から試合にも出れるのが特徴。, 2018年夏の甲子園でも1年生が2名メンバー入りし、1名はレギュラーで試合に出ています。, ほとんどが県内の選手で固められています。県立ではありますが、2名県外からの野球留学生がメンバー入りしています。, 練習時間は圧倒的に長いのが鳴門高校の特徴。公立高校でここまで長いチームはあまりありません。, 県立高校なので当たり前と言えば当たりまえですが・・・。寮がないので県外の選手は基本下宿だと考えてください。, 声の方向に目をやると・・・・・・。机の上にはうず高く積まれたピンク色のノート。表紙には「練習の記録」。これが鳴門の強さを影で司っている練習ノートである。, 「1年生には4月にノートを渡して8月末まで。以後は9月から翌年2月まで。3月から8月までという感じで毎日、日記をつけていきます。, 本当は返事も書かなくてはいけないんですけど、見て返すだけですね」このようにノートの使い方を説明するのは森脇 稔監督。, 約15年前、前任の徳島工業監督時代からこの「練習の記録」を採り入れ、就任9年目を迎える鳴門でも継続している。, 練習ノートは非常に大事な物です。目標や一日を振り返ることにより、自分自身の見直しができます。, 今日は文章が短い・・・。今日は長い・・・。字がいつもより汚いなど、いろんな情報が文字から入ってきます。, 学科は、「全日制」と「定時制」の普通科があります。「誠実・勤勉・質実・剛健」を校訓とし、文武両道を目指します。, また、生徒個性を尊重し、生徒一人ひとりに合わせた進路指導を行います。1学年の全校生徒数は300人強であり、全校生徒は1000人弱です。二年生からは文系理系に分かれます。, 東京経済大学・龍谷大学・法政大学・国士舘大学・明治大学・中央大学・立命館大学・駒澤大学・近畿大学, 県内公立校唯一のスポーツ学科を備え、校内にはスポーツ学部の遠隔地出身者対象寮も設置。最新器具も多数備えるウエイトトレーニング室など、自ら鍛えることができる環境が十分に備わっている。, ・甲子園出場((鳴門工業・鳴門第一2012年統合)それまで両校合わせた出場回数選手権6回選抜9回), ・里崎智也(千葉ロッテ 1998年ドラフト2位指名、WBC、五輪代表)※出身は前身の鳴門工業高校。, 本寮は、原則として運動部活動に所属している生徒で通学が困難なため効果的に練習ができない者を入寮の対象とする。, 国士舘大学・帝京大学・早稲田大学・拓殖大学・日本大学・四国学院大学・明治大学・関西大学・大阪学院大学など, 徳島県内で唯一硬式野球部を持つ私学。同校で監督を務めた市原清氏が校長・理事長を勤め、球場型グラウンドも校舎前にあるなど、野球部に注ぐ心血は非常に熱い。, 徳島県内では、かなりの部員数を誇ります。2018年の夏の甲子園へ出場した鳴門高校は45名、鳴門渦潮高校も約55名程度。, 徳島県は私立が生光学園の1校のみのめずらしい県です。どうにか私立の維持をみしてほしい。, 06年に中学校の硬式野球部を立ち上げ、ヤングリーグに所属。2009年春には全国優勝を果たす。, じっとしていたら、徳島商や鳴門に生徒は行くと考え、中学の野球部を作って、自前で育てて高校へ招く。, ・大学野球(首位打者1回・最高殊勲選手1回・ベストナイン3回・日米野球2年連続出場), ・プロ野球(13年間在籍・昭和56年日本シリーズ優秀選手・12打数8安打.667・2本塁打・6打点・平成13年マスターズリーグ出場), 中高が同じ校長なら、3年夏の引退後に高校生と合同練習ができる。監督の河野雅矢は言う。, 「普通の高校なら、冬の練習は3年間で2度しかできない。ただ、うちの中学生は3度、一緒に練習できる」, 少人数教育により、教育が行き届くようにしています。コースは、国公立大学や難関私立大学への合格を目指す「特別進学コース」、基礎学力向上を図る「普通コース」、専門知識と身体能力の飛躍を目指し、クラブ活動と学業の両立をサポートする「体育コース」があり、目標に併せたコース選択が可能です。, 進路実績は4年制大学への進学が約5割、専門学校への進学が約2割、短期大学への進学が約0.5割、就職が約2割です。, なぜなら、野球推薦で入学できるのはごく一部、また、野球でご飯を食べれるのは一握りの選手だからです。, あなたの子供がどれだけ実績があっても、行きたい強豪高校から推薦が来ないと入学は出来ません。, また、子供が行きたいのが公立高校の場合は、野球推薦だけで入学は難しいでしょう。だから、勉強をしてほしんです!, しかも、子供の人生は高校野球で終わりではありません。そこから大学で野球をする可能性もあります。そこでも勉強が必要になってきます。, 勉強が出来れば、子供の選択しが広がり、高校や大学を幅広く選ぶことが出来ます。その選択肢をあなたが広げてあげてください。, そして、野球でご飯を食べられる選手なんて稀なんです!私の中学、高校、大学の同期・後輩・先輩で社会人プロなのでご飯を食べられている選手は、約200人中2名。1%です。, とは言っても、部活動をしていたらなかなか勉強が出来ないと思います。そこで、元教師の私が2つ家で、勉強が出来るオンライン授業を2つ紹介します。, 時間がないなら、オンラインで勉強すれば問題なし!時間にとらわれず、場所にもとらわれず、どこでも勉強ができます。, 個人的には、進研ゼミの方が取り組みやすいと考えます!タブレットで学習できるので、勉強が苦手な子供も集中して勉強が出来ます。, 実際に、今回紹介した3つの高校を見てわかるように、部員数はどこも9名以上です。これが指し示すのは、残りの部員は試合にでることが出来ません。, 自分の子供が強豪高校野球部へ進学したのはいいけど、一切試合にも出られない、ベンチにさえ入れないで3年間終わることは当たり前のようにあります。, そんな悲しい高校野球生活を送らせないためにも、中学時代から野球のレベルUPを親子でやる必要があります。, もちろん一緒にレベルUP出来るぐらい、あなたに実力があればいいですが、正直そんな親はあまりいません。, なので、子供がレベルUP出来るトレーニング道具を与えて、見守りながらやることをおすすめします。, 私の野球経験から投手に最適なトレーニング道具、バッティングに最適なトレーニング道具を紹介したいと思います。ぜひ読んで頂けたらと思います↓, 【親必見】野球のバッティング技術が向上するトレーニングおすすめ道具5選。最新技術でレベルUP!, また、野球のレベル向上だけではなく、体も大きくする必要があります。なので、下記の記事も参考にどうぞ↓, 「体を変化させろ!」プロ野球選手になるには、中高校生からプロテインを飲んだ方がいい3つの理由, ○○へ行けば必ず甲子園に出場できる!わけではありません。しかし、できるだけ甲子園に出場したいのであれば、今回紹介した3校へ進学をオススメします。, ただ、プロ野球選手になりたい!と断固たる夢を持っているのであれば、環境は大事なので私立をおすすめします。, 「夢」プロ野球選手になりたいなら、公立高校より強豪私立高校をおすすめする3つの理由, 監督が変わった途端に強くなったり、弱くなったりしますので、特に監督情報を耳に入れるようにしてください。, 勝つのも必要ですが、人間教育も大事な要素です。しっかり子供の将来を考えて進学させてあげてくださいね。, ネットで拾えるような薄い情報だけを掲載するな。 誰も得しない。 間違いが多すぎる。 鳴門高校にスポーツ科はない。, 今後は間違いがないようにさせて頂きます。 またネット以外での情報も書かせて頂きます。 今後とのよろしくお願いいたします。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, フォローするかはあなた次第。 家族が宝。家族のためなら何でもできるKENです。 大学までガチ硬式野球部(全国ベスト16) 小学3年間、中学3年間、高校3年間、大学4年間、指導者3年間計16年間野球に携わってきました。 徳島県高等学校優勝野球大会 決勝 徳島県鳴門総合運動公園野球場 (オロナミンC球場) 鳴門 7 - 6 徳島商 レポート 応援メッセージ (1) 2020.08.04 徳島県高校優勝野球大会最終日は5日、鳴門オロナミンC球場で鳴門対徳島商の決勝が行われ、鳴門が7-6で競り勝ち夏の頂点に立った。 鳴門は3点を追う九回、1死一、二塁から田口の右前打で1点を返すと、続く岸本の右中間二塁打で2者がかえり同点。 2013年春、2013年夏、2016年夏は全国ベスト8へ駒を進めている。  大会は全国高校野球選手権徳島大会が新型コロナウイルスの影響で中止となり、代わりの独自大会として行われた。, 鳴門対徳島商 1回表、鳴門2死一塁、岡崎が右中間三塁打を放ち先制する=鳴門オロナミンC球場, 鳴門対徳島商 6回裏、徳島商2死満塁、松原の右前打で二塁走者の楠本が生還し4-3と逆転する=鳴門オロナミンC球場. 潮崎 哲也(しおざき てつや、1968年11月26日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。, 現役時代は西武ライオンズに所属し、「魔球」[1]と称されたシンカーを駆使した投球術で西武の黄金期を支えた。, 鳴門高校ではスリークォーターのオーソドックスなフォームからストレートと変化の大きいカーブ[2]以外に決め球がなく[3]、控え投手兼外野手という時期が続いた[4]。このためフォークボールやパームを習得に励んだがうまく行かなかったという[5]。2年時に首脳陣から「目先を変える意味で、横でも下からでも投げておけ」 と指示されたことでサイドスローに転向した[6]。転機は3年生の春に高松西高との練習試合を行なった際、同じサイドスローの相手投手がシンカーを投げていたことから、監督から「お前も同じようなタイプだから、シンカーを投げろ」[6]と勧められて挑戦したという[3]。カーブと逆に手首を捻って中指と薬指から抜くような独特の投げ方を試すと、[2]1球目から驚くほど落ちるシンカーが投げられ、楽に三振が取れるようになり、同年夏の徳島大会でチームが決勝まで進む原動力となった[7]。なお、決勝では池田高校に敗れて甲子園出場はならなかった。, 卒業後は松下電器に入社し、同社保有の社会人野球チーム松下電器野球部へ入部。勤務先の潮崎の月給は11万円強と高額ではなかったものの好きな野球ができて嬉しかったという[4]。監督の鍛治舎巧に素質を評価されて[8]1年目から先発を務め、1987年の都市対抗野球大会に出場。ストレートの球速が10km以上速くなり[6]、150km近くのストレートと40~50km遅い100km台のシンカーとのコンビネーションで相手打者を幻惑し、社会人野球を代表する投手として注目される。 1988年の都市対抗では1回戦で日立製作所を破って勝利投手となったが、2回戦では同大会の久慈賞を受賞したNTT東海の上原勝男と投げ合って敗戦投手となっている。, 同年のソウルオリンピック(以下、五輪)では、潮崎は19歳という史上最年少で日本代表に選ばれ[6]、同じメンバーで参加した五輪直前のIBAFワールドカップで好投。特に対オランダ戦では6回1/3を投げて12個の三振を奪うなど、シンカーが威力を発揮した[9]。五輪では野茂英雄や石井丈裕と共に先発ローテーションを構成し、予選リーグ第3戦の対オランダ戦で先発して5回を2安打8奪三振の内容で勝利投手となった。また、同大会では予選リーグ第1戦以外の4試合全てに登板して8回2/3を投げ1失点と、影のMVPと呼ばれるほどの活躍[10]で銀メダル獲得に貢献した[6]。なお、決勝の対アメリカ戦では6回から2イニングを完璧に抑えたが、鈴木義信監督が迷いながら続投させた[11]8回にティノ・マルティネスに外角低めの直球を打たれ、左翼席上段まで届く本塁打にされている[12]。, 翌1989年の都市対抗では大阪府予選の第一代表決定戦で野茂と投げ合い[8]、この試合は12三振を奪いながら敗れたものの本大会に出場。準決勝でプリンスホテルと対戦し、10回1/3を投げ抜いた末に敗戦投手となった。同年は野茂や与田剛とともに「社会人三羽ガラス」と並び称され[13]、1989年度ドラフト会議にて西武から1位指名を受けて入団[注 1]。契約金、年俸はそれぞれ7,800万円、840万円(いずれも推定)で、担当スカウトは浦田直治と鈴木照雄だった[14]。西武が潮崎を指名した経緯としては、当初は野茂の獲得に動いていたものの8球団が競合となったことを嫌い、また当時の西武は先発陣と打線は揃っていたものの、中継ぎと抑えの投手陣が貧弱だったというチーム事情で潮崎の一本釣りに切り替えたというものである[2]。背番号は松沼雅之が着けていた16になっている。社会人時代に野茂や与田、佐々岡真司らの投球を目の当たりにしていた事で、プロ入り後に気持ちの余裕が生まれたという[15]。, 1990年(1年目)は、西武のドラフト1位投手としては森繁和以来の11年ぶりとなる開幕一軍入りを果たした[16]。4月14日の平和台での対福岡ダイエーホークス戦で初登板し、ブルペンでの投球練習がわずか10球だったにも関わらず[17]2回1/3を2安打無失点、4奪三振に抑えている[18]。2回目の登板となった4月24日の西宮球場での対オリックス・ブレーブス戦では山越吉洋に本塁打を打たれるも、2回1/3をこの1失点に抑えてプロ初勝利を挙げた[18]。さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に新人としては1962年の尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した[6]。だが、7回に9人目の代打・柴原実にレフト前ヒットを許して日本タイ記録はならなかったが[注 2]、翌日のスポーツ紙などで大きく報じられ、これをきっかけに潮崎の人気と知名度が上昇した[2]。鹿取義隆とともにダブルストッパーを務め、主にセットアッパーとして鹿取の最多セーブ投手獲得を支えた。リーグ優勝を決めた9月23日の西武球場での対日本ハムファイターズ戦では、最後に鹿取が登板する予定だったが、1死1、2塁の場面で田中幸雄をゲッツーに打ち取ったため潮崎が胴上げ投手となった[19]。同年の日本シリーズでは、第2戦で4回途中から2番手として登板し、4回2/3を投げて被安打2、自責点2の内容で勝利投手となった[20]。第4戦でも7回から3イニングを無失点に抑え、シリーズ初セーブを挙げるとともに胴上げ投手になっている[21]。なお、レギュラーシーズンと日本シリーズ双方で胴上げ投手となった新人は1975年の山口高志以来、史上2人目だった[2]。同年は最優秀新人の選考は野茂に敗れたものの、102回2/3を投げて123奪三振、防御率1.84の活躍でパシフィック・リーグ会長特別賞を受賞した。, 1991年は、疲れさえ残さなければ前年並の成績を残せると自信を持って[22]鹿取とともに自主トレを行ない、所沢キャンプでは体力向上に努めた[23]。しかしキャンプに入ると納得の行くストレートが投げられず、2月26日の紅白戦初登板では辻発彦、奈良原浩、安部理に3連続盗塁を喫するなど、3回4失点の不本意な内容に終わった[23]。前年の投球フォームをビデオで確認するなど修正に務めたが、シーズンの防御率は4.48と悪化した。同年の日本シリーズでは第2戦で1回を無失点に抑えた。第4戦では2回を投げ3連打を含む4安打3失点で決勝点を奪われたものの、敗戦投手にはなっていない[24]。同年の契約更改では中継ぎだけでなく先発ローテーションの谷間も埋めたフル回転の働きが評価され[25]、年俸は1,300万円増の4,100万円(推定)となった。, 1992年はシンカーのキレが今ひとつだった[26]が、初の二桁セーブを挙げた。同年の日本シリーズでは抑えの切り札として第4戦までのうち3試合に登板し、シンカーの復調もあっていずれも無失点に抑えて2セーブを挙げている[26]。しかし、大宮龍男と組んだ第5戦では連投の疲れから球威が落ちたストレートを狙われ[26]、3イニング目に入った延長10回に池山隆寛に決勝点となる本塁打を浴びて敗戦投手となった。続く第6戦でも延長10回に秦真司にサヨナラ本塁打を打たれている[27]。オフには年俸6,500万円(推定)で契約を更改した[28]。, 1993年には杉山賢人が入団し、鹿取と3人で勝ち試合の終盤を任されるようになり、「サンフレッチェ」[注 3][30]と呼ばれた。森監督の起用法にも支えられて安定感の高い救援トリオを形成し[31]、潮崎はいずれもキャリアハイとなる53試合登板、防御率1.18の成績を残している。なお、優勝がかかった10月6日の対大阪近鉄バファローズ戦では延長10回にラルフ・ブライアントを迎えた場面で一時左翼手の守備に就くという珍しい経験をしている[32]。この年の日本シリーズは第3戦から第7戦まで5試合連続で登板し、そのうち第4戦から第6戦まではサンフレッチェが揃って登板した。シリーズでは計6回2/3を投げ自責点2、2セーブの内容で優秀選手賞を受賞している[6]。またオフには身体障害者などを招待する「潮崎シート」を西武球場に新設し、所沢市に運用を委託した[33]。, 1994年は2年連続で50試合に登板し、防御率2.39と安定した成績を残している。同年の日本シリーズは3試合で3回2/3を投げ自責点1で、勝敗やセーブはつかなかった。オフには1,000万円増の年俸1億円(推定)で契約を更改し[34]、清原和博と並ぶ球団史上最速の6年目で1億円の大台に達した。, 1995年はオールスターゲームに初出場を果たし、第2戦で1回を投げている。シーズン通算では5勝6敗12Sと負け越したものの、防御率が2年振りに1点台(1.92[2])を記録し、奪三振率も9.73と高かった。, 1996年は、東尾監督の方針で鹿取に代わるクローザーに指名された[35]。しかし肩痛による調整遅れやプレッシャーなどもあり、シーズン序盤は18試合に登板して1勝4敗6セーブ、防御率6.00と不振に苦しみ6月2日には自身初となるケガ以外での二軍落ちを経験した[35]。二軍での調整を経て6月13日に一軍に復帰すると翌日の福岡ドームでの対ダイエー戦で3回2/3を1安打無失点に抑え、続く6月16日の対ダイエー戦でも1回を零封した[35]。この試合の後に先発転向を命じられ、6月21日の西武球場での対日本ハム戦で8回を2安打無失点に抑える好投を見せている。7月10日の対日本ハム戦では7回2/3まで完全試合の内容で投げるなど先発として一定の成果を残したが、8月からはリリーフに戻った。, 1997年は前年オフに台湾プロ野球で最多セーブを記録したロバート・ウィッシュネフスキーを獲得、また同じく前年に石井貴がリリーフとして台頭してきたこともあり、東尾監督の勧めと潮崎の希望から先発に転向した。4月15日の対日本ハム戦では7回2/3を投げて4安打無失点で初勝利を挙げ、順調なスタートを切っている[36]。5月18日の西武球場での対ロッテ戦では被安打2で初の完封勝利を記録するなど白星を重ね、8月28日の対ダイエー戦は9回途中まで1失点に抑える内容で先発のみで初の二桁勝利を達成した。同年は自己最多の12勝を挙げ、防御率はリーグ3位の2.90を記録した[37]。同年の日本シリーズは第2戦に先発し、1失点ながら6安打を浴びて3回で降板。第4戦では新谷博の後を受けて2番手として登板し、2/3回を投げて2安打1死球で満塁となったが杉山が後続を断った。また、オフには翌年のアジア大会の日本代表合宿に参加し、立石尚行にシンカーを教授している[38]。, 1998年は西口文也に次ぐ先発2番手として期待されたが[39]、前年を下回る7勝に終わったが後半戦中継ぎに回りリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは2連敗で迎えた第3戦に先発し、緩急や高めの球をうまく使って[40]横浜ベイスターズのマシンガン打線を抑えた。オフには、同年取得したFA権を行使した上でチームに残留している[41]。, 1999年は高速シンカーを習得し、4月18日の対日本ハム戦では8回を投げて4安打1失点の好投を見せた[38]が、高速シンカーを覚えたことにより本来投げていたシンカーのキレが悪くなり痛打が目立ちシーズン通算では5勝に終わっている。, 2000年4月30日の西武球場での対ロッテ戦で1000投球回を達成。2001年頃からは投球の計算が立ちにくくなり、不安を抱えながら投げることが多くなったという[15]。また、点差をつけられた場面などでの起用が増えていった[42]。2002年は石井貴の故障などから[43]13試合に先発し、4月27日の対日本ハム戦では1年半ぶりに先発勝利を上げた。, 2004年は9月上旬に球団から引退を打診され、力の衰えを実感していた事もあってあっさり受け入れた[15]。9月21日の西武ドームでの対ロッテ戦が潮崎にとって引退試合となった。この試合、潮崎は1打席限定の登板で先発し同じく引退打席の佐藤幸彦にシンカーとストレートを投げて右飛に打ち取り、試合後に胴上げされている[15]。, 2007年にグッドウィル(西武二軍)の投手コーチに就任。2008年、一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格。5月24日の対巨人戦の始球式では巨人一軍打撃コーチの篠塚和典と対決し、左中間へのヒットを打たれた。2010年は一軍投手コーチ(ベンチ)を務めた。2009年はパシフィック・リーグワースト記録となる14回のサヨナラ負けを喫するなど中継ぎ陣の弱さが目立ち、2010年はチーム防御率が前身のクラウンライターライオンズ時代以来33年ぶりの最下位に低迷した。また救援防御率は4.15、5.31、5.08と低迷し、3年連続でチーム救援防御率リーグ最下位に終わっている。, 2011年から2012年までは西武の編成部にプロ担当として在籍。2013年からは、同球団の二軍監督として3シーズンぶりに現場へ復帰[44]し、2015年10月13日に翌2016年の一軍ヘッド兼投手コーチ就任が発表された[45]。2017年・2018年には再び二軍監督を務めた。2019年からは松井稼頭央の二軍監督就任に伴いフロント入りし[46]、編成グループトップのディレクターに就任した[47]。, 右のサイドスローから150km/h近い速球[23]と100km/h前後の球速で50cm近くも沈むシンカー[23]、130km/h台のスライダーを投げ分け、リリーフおよび先発で活躍した。プロでの先発転向後、1999年には120km/h台の高速シンカーも習得した[38]。サイドスローのフォームは鹿取義隆や斎藤雅樹を参考にし[42]、横から投げるためシンカーが浮き上がるようなイメージを作り出していた[48]。, リリーフの時は打球を前に飛ばさない事を第一に考え、カウントを取る球も勝負球もシンカーで見逃されて四球になるリスクと隣合わせの投球スタイルだった[5]。一方で先発の時は走者を貯めないことを先決にし、投球の組み立てにおけるシンカーの比重が相対的に小さくなった[5]。リリーフの心構えについては鹿取から教えられたことが役立ったといい、打たれても落ち込まない姿勢や投球に対するシンプルな考え方を学んでいる[42]。, 打たれても悔やんで引きずることはなく[49]、抑えたら自分の力だと思うほど開き直りの良い性格で[50]、プロ入り1年目から1994年まで監督を務めた森祇晶からも精神力の強さはチームで一番と評されていた[51]。右投げのアンダーハンドの投手は「左打者に相性が悪い」という定説があったが[29]、潮崎はそれほど苦にしなかった[29]。加えて潮崎はホームランバッターもそれほど苦にしなかった一方で、空振りが取れなかった新井宏昌は対戦したプロ選手の中で印象に残っているという[49]。, 潮崎の最大の持ち味として、「魔球[1]」あるいは「伝家の宝刀[2]」と称されたシンカーが挙げられる。, 遅いシンカーはカーブと逆の握りで逆に手首を捻って中指と薬指から抜くバルカンチェンジのような独特の投げ方[38]で、軌道もスライダーのようにスッと沈むオーソドックスなものではなく、一度浮かんで沈むようなカーブに近い軌道だった[5]。右に沈むため自身はシンカーと呼んでいたが、一般的なシンカーとは別の球種だと指摘されることもあった[5]。松沼雅之は「パームボールのように揺れながら浮き上がりフォークボールのようなスピードで落ちる球」と表現し[52]、森繁和は「スピードはないものの、一度浮き上がってから落ちる。横から見るとカーブのようだった。サイドスローからの独特な、見たことのないボールだった」[53]と評している。国際試合などでは2巡目からシンカーにタイミングを合わされる事がしばしばあり、リリーフとしての短いイニングの起用で威力がより発揮された面もあったという[5]。なお、高速シンカーはストレートに近い握りで、リリースの瞬間に手首を被せるように投げていた[38]。潮崎曰く、自身のシンカーのルーツとなったのは水島新司の野球漫画「ドカベン」に登場する里中智が得意とする『さとるボール』であるという[2]。, 西武時代の清原和博は潮崎のシンカーを「ボールがホームベース直前で視界から消える。消える球は打てない」と評し、「同じチームでよかった」と言わしめた[2]。門田博光は潮崎のシンカーを苦手とし、潮崎がボールを投げた瞬間にバッターボックスの一番前まで移動して打とうとしたことがあったものの、打つことができなかった[2]。野村克也はヤクルトの監督を務めていた1992年のユマでの春季キャンプにおいて[54]、当時プロ入り2年目で決め球を持っておらず「お前にはスピードがないから緩急をつけろ」と指示してきた高津臣吾に対し「潮崎はなぜ抑えられる?真っすぐとシンカーだけなのに」と問うた[54]。同年の日本シリーズで西武と対戦した際にも「ああいうシンカーを覚えろ」とアドバイスを送り、高津もこれを聞き入れて独学での習得に励み、1年でのマスター[54]に成功した[2]。, 他にも西武での同僚・関係者や相手チームの選手からは、「一度浮き上がってきて、目線から消えた。それで完全に上体が起こされてしまって。ファウルで逃げ粘るのが精いっぱいやった」(福良淳一[53])、「一度フワッと浮いて、ストライクゾーンに落ちてくる。それまで見たことがない軌道だった。まさに魔球だよね」(渡辺久信[53])、「抜けたと思ったらボールからストライクゾーンに入ってくる。想定外の変化をする。打席でのけぞったのはあの球ぐらい」(小川博文[53])、「左ピッチャーのように曲がる。西武時代に潮崎さんのボールを(捕手として)受けていたけど、あの曲がりは特殊」(和田一浩[53])と評されている。, 潮崎は現役時代にチームの勉強会で投手コーチからシンカーの握りを公開するように求められた際、「同じチーム内でもライバル。メシの種は教えられない」とこの要求を突っぱねたことがあったが[2]、引退後に行われたあるインタビューで「シンカーを伝授したいと思ったことは?」と問われた際には「一子相伝じゃないし、自分の代でこの変化球を終わらせたくはないから、伝授したい気持ちは重々ある」と答えている[2]。実際投げ方を教わりにきた投手は少なくなかったため惜しまずにボールの握り方を教えたが、彼のようなシンカーを投げる者は現れず[6]、その理由として潮崎のように薬指の柔らかさを持つ投手はおらず、ボールをリリースする際にうまく抜くことができないため、回転力を止めてしまうことが挙げられた[6]。2005年に中日から西武に移籍してきた正津英志は「いろいろとマネしてみましたが、潮崎さんのシンカーを投げられませんでした」とコメントしている[6]。, 身長176cm、体重68kg(入団1年目)の細身の体[23]に加えジャニーズ系の甘いルックス[16]で絶大な人気を誇った。新人時代の潮崎は1週間に40通以上のファンレターが届き、スポーツタオルなどのプレゼントも大量に贈られた[55]。スポーツ雑誌の「人気選手ランキング」ではトップ3の常連で、登板時に潮崎の名前がコールされるとスタンドから黄色い歓声が起こった。当時のプロ野球選手では珍しい「かわいい系」の風貌で女性ファンのハートをがっちりつかんだが、ピンチに動じないメンタルに加え、大きな故障がなく体も強かった。, 握力が30kgしかなく[23]、1年目のキャンプではバーベルを上げられなかったという逸話もある。, 私生活では2人の息子がおり、潮崎が現役引退時に少年野球をしていた長男には力の衰えを理解してもらえなかったという[15]。, 「[連続インタビュー'04年のおわりに]八木裕/潮崎哲也/赤堀元之「刻んだ思いは、それぞれに」」『, 「大いなる挑戦 「記録」に挑んだ男たち」『Number』、1991年1月20日号、P.30, 「大いなる挑戦 「記録」に挑んだ男たち」『Number』、1991年1月20日号、P.29, 「ジンクスを嗤う 潮崎哲也「理想のフォームをイメージしながら」」『Number』、1991年4月5日号、P.50, 「第2戦 1本のホームランで西武がタイに」『Number』、1992年11月20日号、P.36, 「[連続インタビュー'04年のおわりに]八木裕/潮崎哲也/赤堀元之「刻んだ思いは、それぞれに」」『Number』、2004年11月11日号、P.69, 「球界200人が選ぶ!史上最強の変化球 第7位 潮崎哲也[元西武]のシンカー」『週刊ベースボール』、2012年7月23日号、P.14, 野球選手に学ぶ"オリジナル技"の開発 潮崎哲也はなぜ魔球シンカーを習得できたのか?(1/4), https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201810220000043_m.html?mode=all, https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201812250000480_m.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=潮崎哲也&oldid=80404198, 初セーブ:1990年7月29日、対オリックス・ブレーブス14回戦(西宮球場)、6回裏1死に救援登板、3回2/3を無失点, 初先発勝利・初完投勝利:1991年9月3日、対オリックス・ブルーウェーブ24回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点, 1000投球回数:2000年4月30日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(西武ドーム) ※史上282人目.