3ヶ月付き合った彼氏を振りました。最後のデートまで彼とはラブラブでしたが この鉄道はロシア資本主義の形成にとっても不可欠なものとなったが、フランス資本の援助を受けたものであった。 ロシア社会主義の台頭 1870年代のインテリゲンツィアによる「ナロードニキ」運動から始 … ・田中英道(2013)『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社. 今のロシアで、通りすがりの人に「同志」と呼びかけたり、世界のプロレタリアートの勝利について会話を始めたりしたら、驚きの目で見られるだろう。ボリシェヴィキが政権に就いた10月革命から100年目、さまざまな浮き沈みとともに共産主義を構築していったソ連の70年間。ロシアで共産主義を信じている人はもういない。共産党はまだ存在するが、最近の選挙の得票率は13%ほどにすぎない。, ウラジーミル・レーニン、ボリシェヴィキ、共産党大会は、1991年のソ連崩壊とともに過去のものとなった。残っているのはクレムリンの塔の上にある赤い星、レーニン像(ウェブサイト「レーニン像」によればロシアには現在、5300体以上ある)、ソ連のモニュメントなど。イデオロギーは残っていない。1917年当時はすべてが熱狂的に始まったが。, 19世紀のドイツの階級闘争の理論家カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、ブルジョワジーに虐げられているまじめな労働者階級の存在する資本主義の発展した社会で、社会主義革命が起こると信じていた。1897年の統計で国の人口に占める農民の人口が77%だった農業国と言えるロシア帝国については、マルクスとエンゲルスはそれほど真剣に考えていなかった。まず資本主義を発展させてから、反発するプロレタリアートの力で打ち破るべきだと。だが想定外の進展になった。, 1917年の2月革命の後、君主制がつぶされ、1917年3月から10月まで、ロシアでは複数の政党が政権を争った。政権の座に就いたのは、より急進的な社会主義者たち、レーニン率いるボリシェヴィキであった。第一次世界大戦で疲弊した国民に、苦しみからの即時解放とささやかな幸福を約束した。国民に平和、農民に土地、労働者に工場、ブルジョワジーに恥ずべき死と。, 「ボリシェヴィキは、社会の嫌悪と均等化主義的正義への期待を敏感に感じ取り、それを利用した」と歴史学者アレクサンドル・オルロフ氏は書いている。ロシア経済・国家行政アカデミーの主任研究員であるアレクサンドル・プルィジコフ氏も、ロシアでのボリシェヴィキの勝利はマルクス主義とは無関係だと考える。, 「これは多くの面で古儀式派風の、ほとんど中世的な暮らしが強く残っていた、とても因習的な環境だった。主な制度はコミュニティで、農民は共同で土地を所有し、耕していた。私有財産はほとんど発達していなかった」とプルィジコフ氏。ボリシェヴィキがすべてを没収して共有しようと提案した祭、喜んでしたがったのが、この二つ目のロシアである。「農民のロシアは長年、ソ連政府を身ごもっていたということ」とプルィジコフ氏。ロシア人がマルクスの思想に忠実だったからではなく、これゆえに、ロシアで共産主義が勝利したのである。, とはいえ、プルィジコフ氏によれば、貧しい人や抑圧された人のいない世界的な公正な社会を構築するという案はその数十年後、信用性を失っていく。「ブレジネフ時代(1970年代)にすでに、党のノーメンクラトゥーラ(特権階級)が国民からかけ離れていて、政権にしがみつこうとするだけで、いかなる明るい未来にも導いてはいないことがはっきりしていた」とプルィジコフ氏。共産主義の理想に対して皆が失望したことが、ソ連崩壊のきかっけになったという。, このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。, 「なぜロシアは...」、「何のためにプーチンは...」。ロシアに関する検索ワードで、最も人気の高いものを集めた。「なぜロシアは」シリーズの記事で、一つ一つの疑問に詳細に答えたい。今日は、国の共産主義の過去について。. 人々は「皇帝に言えば状況は改善できるかも」と信じたのかもしれませんが、その願いは打ち砕かれます。 小室圭さんが天皇の義理兄となれば安定した仕事に就く事が出来るのか?アメリカでの弁護士資格を取得できた場合、出来なかった場合、日本でも頑張って弁護士資格を取得した場合でも将来的に天皇の義理の兄として安定的な仕事が用意されるのでしょうか? どんなだったか知らせて下さい。. 2、戦後日本資本主義と国家独占資本主義論争 (1)戦後日本の民主化から高度成長へ 第2次世界大戦後、日本は占領軍(ghq)の下に農地改革、財閥解体、労働 基本権の確立など「民主化」を進めた。講座派が指摘した「日本資本主義の軍事 この事件はロシア全国で大きな波紋を呼ぶことになり、労働者によるストライキも発生。 Copyright © 2014 Revive Co. ,Ltd. All rights reserved. 受けた方?折り返した方? 私達日本人からすれば、社会主義や共産主義という言葉は、あまりピンとこないものです。 日本は典型的な資本主義国家であり、また世界の経済システムは、ほとんどが資本主義体制を採用しているからです。 資本主義とは、資本家が労働者を雇い、利益を得ていくシステムです。 わかりやすく言えば、会社の社長(資本家)が従業員(労働者)に賃金を払い、労働者は自分の労働力を提供します。 日本の主流を占める、サラリー … 資本主義の反対にあるのが社会主義です。社会主義の国では、財産は国家が所有し、資源や労働力やモノの値段などは国が管理します。国民には労働量に関係なく、一律の対価が支給されます。 q 日本はいつから資本主義なの?

レーニンは、世界初の社会主義国ソ連を誕生させた指導者。彼が目指したのは、戦争をなくすため、新しい平等な社会を打ち立てることでした。, 1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア王国の青年により暗殺されました。サラエボ事件(※1)です。この事件をきっかけにオーストリア=ハンガリーがセルビアに対し宣戦。さらに周辺諸国が次々と参戦し、第一次世界大戦にまで発展してしまいました。, ※1:サラエボ事件…1914年6月28日、バルカン半島の都市サラエボでおこった、オーストリア=ハンガリーの帝位継承者夫妻(皇太子夫妻)の暗殺事件。犯人はプリンチプというセルビア王国の青年。, 第一次世界大戦では、参戦国の指導者から出征兵士まで誰もが、この戦争は短期間で終結すると考えていました。そして、人々は勝利を楽観し、兵士を盛り立てて戦場へ送り出します。戦争が始まってわずか1ヶ月のうちに、ヨーロッパでは、1000万人以上が動員されました。しかし、戦いは一進一退を繰り返し長期化。戦況は泥沼化し、それまでにない大規模で悲惨な戦争になりました。, 第一次世界大戦では、産業革命ではじまった大量生産、大量消費が戦争にも持ち込まれました。当時の最新兵器だった戦車や飛行機、潜水艦なども次々と登場します。さらには、毒ガスなどの大量殺戮兵器も使われ、多くの戦死者が出ました。, 各国は短期間で物資を使い果たしてしまったため、勝敗はそれぞれの国の生産力に左右されることになります。そして、全ての資源や労働力を戦争につぎこむ「総力戦」体制がしかれ、女性や子供も労働に駆り出されるようになりました。, ※19世紀までは、国民と戦争は切り離されており、国民にとって、戦争は遠い存在でした。, この総力戦は、ロシアに大きな打撃を与えました。街からは生活物資が消え、人々は苦しい生活を強いられました。近代化に遅れをとっていたロシアに、総力戦に耐えられる国内体制など、整っていなかったのです。, ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党)の指導者レーニンは、このような愚かな戦争は、すぐにでも止めるべきだと主張しました。この戦争の背景には、資本主義の拡大を目指す帝国主義(※)があり、戦争を止めるには、資本主義自体を打倒する必要があると考えたのです。こうして、レーニンは革命への道を進むことになります。, ※帝国主義…国家が領土(植民地)の獲得や市場の独占を目指して、他民族や他国家を侵略・抑圧する政治・経済体制と政策。第一次世界大戦は「帝国主義戦争」とも呼ばれています。, 1917年3月、ロシアではついに、戦争で苦しい生活を強いられた労働者が「パンと平和(食糧と停戦)」を求めて首都ペトログラードでデモが起こります。デモが各地に広がっていく中、反乱した兵士もこれに合流。ロシア全土にデモが拡大しました。このとき社会主義者をリーダーとし、労働者や兵士からなる「ソビエト(評議会)」という組織が各地に結成され、革命がおしすすめられました。, 国会ではソビエトが支持した政治家による臨時政府が樹立され、皇帝ニコライ2世は退位。300年続いた帝政ロシアの王朝(ロマノフ朝)は終わりを告げました。これを三月革命(ロシア暦/二月革命)といいます。, 1917年11月7日、ネヴァ川に浮かぶオーロラ号の空砲を合図に、革命軍は臨時政府の最後の拠点である冬宮を攻撃。一夜にして打倒した。(山川出版「世界史図録ヒストリカ」より), 3月革命によって、ロシアは資本主義と決別し、戦争を止めると思われました。しかし、臨時政府は帝国時代の方針(※)を引き継いで戦争を続けたため、人々の間には不信感が広がります。, ※臨時政府は、一部の社会革命党のケレンスキーという社会主義者が入りましたが、立憲民主党やメンシェヴィキを中心として組織されたため、ブルジョワジー(社会主義では「資本家階級」)に有利な政策を行うようになります。第1次世界大戦では、多くの軍需産業が儲かったため、ブルジョワジーは戦いが続くことを望み、臨時政府は戦争を継続する政策をとったといわれています。, ボリシェヴィキの指導者レーニンは「今こそ革命によって社会を変えるチャンスだ」と感じます。レーニンは亡命地(スイス)から帰国(※)し、その翌日には、「4月テーゼ」を発表し、臨時政府との対決姿勢を示します。, ※ドイツは交戦国であるロシアの混乱をもくろみ、レーニンら革命家の帰国を支援しました。帰国させる際には、革命の宣伝させないよう(世間に知られないよう)、レーニンら革命家を封印された列車(封印列車)に乗せて移送させました。, 4条 労働者の代表ソヴィ工トが革命政府の唯一の可能な形態であるということを大衆に説明すること。, 戦争中止を訴え、パンと平和、そして土地を求めることを明確にします。そして戦争を止めない臨時政府を倒し、すべての権力をソビエトが握るべく革命が必要性を訴えると、これを支持する勢力が増大。こうして、ボリシェヴィキとソビエトは、臨時政府と対立しました。, レーニンは民衆の支持を集め、一気に革命運動を進めました。そして1917年11月、首都で武装蜂起。革命勢力は首都を制圧し、臨時政府を武力で打倒しました。これが十一月革命です。こうしてレーニンは、人類史上初の社会主義政権となる、ソビエト政権を樹立したのです。, 革命政党は「共産党」と名乗りました。主な政策として、「平和・農民のための土地」を掲げ、 社会主義国家はマルクスの趣旨と違う? マルクスは1818年、プロイセン(現西ドイツ)にユダヤ人として生まれました。法学と哲学を学んだあと、新聞記者になり、世の中の事を批判するように。 その後、工場を経営する資本家エンゲルスのサポートを受けて研究。 なのに急にそ... 水溜りボンドのトミーさんが今日の動画で坊主にしたときに この事態を受けた政府は資本家セルゲイ・ヴィッテを首相に任命、解決に向かうことになり、10月17日に皇帝ニコライ2世の名で思想・言論・集会・結社の自由、国会(ドゥーマ)の開設を認める「十月宣言」を出します。 仕事が忙しい彼氏と昨日ご飯に行く約束をしていて集合場所に20分近く来ず、メッセージで別れようって言われました。彼からもう嫌いになったんでしょ?って言われましたが、私の気持ちを伝えた後、彼から別れたく無いし大好きだよって言われました。 19世紀のドイツの階級闘争の理論家カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、ブルジョワジーに虐げられているまじめな労働者階級の存在する資本主義の発展した社会で、社会主義革命が起こると信じていた。1897年の統計で国の人口に占める農民の人口が77%だった農業国と言えるロシア帝国については、マルクスとエンゲルスはそれほど真剣に考えていなかった。まず資本主義を発展させてから、反発するプロレタリ … 「あの動画のことで」というような会話がありましたが、何の動画のことですか?炎上したのですか?, トイレへ行く際に、冗談で「お花を摘みに行ってきます。」と言ったところ、相手に伝わらなかったのですが、この言い回しの認知度ってどれぐらいなのでしょうか?. 、最後の半月で突然彼からの連絡はなくなり(私からのメッセージには即レスしてくれましたが)、私からのデートも電話も忙しいとの理由で断られました。

1922年から1991年まで存在した国家「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦。ソ連)」。世界最初の社会主義国として誕生した「ソ連」は1950年代までに世界の最先進工業国になるなど世界的な大国になりますが、その後の低迷や198… 審議日程がよくわかりません。土日も挟むと思うので、何日に成立する見通しでしょうか。. 20世紀の国際社会は「資本主義」と「社会主義」という、2つの思想がぶつかりあった時代でした。, その社会主義が、初めて国家制度に取り入れられるきっかけとなったのがロシア革命です。, フランス革命から約130年たってから行われたこの革命は、帝政を解体し、初の社会主義国家を生み出しました。それは後の東西冷戦につながっていきます。, ロシア革命と社会主義国家の建国は、20世紀の歴史において無視できない創造だったのです。, 1905年1月、日露戦争も佳境に入るなか、ロシア帝国の首都ペテルブルグで非常に血なまぐさい事件が起きました。それが「血の日曜日事件」です。, その日、当時のロシア皇帝ニコライ2世に対して、労働者の権利や日露戦争の停止、憲法の制定を求めて大規模なデモが行われました。約10万人もの民衆が集まりましたが、軍と衝突し発砲を受け、2000名以上の死傷者が出ています。, この弾圧によってロシアの大衆は皇帝への信頼を完全に失い、それまでの不満を訴える先を見失いました。そのため、ロシア皇帝と民衆の間に大きな溝ができ、帝政は急速に傾いていきます。, 1905年9月にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終わります。ですが、ロシア国内はとても安定しているとは言えない状況でした。, 民の信望を失った皇帝は、1906年4月に憲法の制定を行って立憲君主制に移行します。しかし、実質は専制君主制が続き、民主化は行われていませんでした。形だけだったのです。, その不安定な状態のまま、1914年にロシアは第一次世界大戦に参戦してしまいます。結果は散々で国土を占領されたばかりか、国内は食料や資源、物品が不足し、物価高騰をまねきました。, 1917年3月に首都ペトログラード(大戦参戦後に改名したペテルブルグ)で起きたデモをきっかけに、軍隊すらも革命側に協力して運動は高まっていきました。, 同年3月15日、ついにニコライ2世は退位し、事実上帝政は倒れます。そして議会制の臨時政府が設立されましたが、その内容はブルジョワ政権で、しかも戦争の継続を意図していました。, ソヴィエトとは「会議・評議会」を意味し、労働者階級を中心とした革命組織を表す名称となっていました。後年、ソヴィエト連邦という国号にも利用されています。, この時点でロシア国内は、臨時政府とソヴィエトという権力の二重構造になっていました。, このままだったら臨時政権がそのまま西洋化を進め、世界初の社会主義国家にはならなかったでしょう。, この武装蜂起によって労働者階級の集まりであるソヴィエトは、資本主義のブルジョワ政権である臨時政府から権力をもぎ取りました。そして、レーニンの指導のもとで社会主義の実現にむけて動き出します。, このように、1917年の3月と11月に行われた2つの革命によって、ロシアは帝政が解体され、世界初の社会主義を目指す国家「ソビエト連邦」が創造されました。, 歴史としてみれば、1900年代の社会主義および共産主義の実験は失敗といわれ、どこの国も資本主義原理の導入を余儀なくされています。, しかし資本主義のアンチテーゼとして、社会主義は多くの教訓を与えてきたのも事実です。, 社会主義の考え方が社会保障制度や労働条件・環境の改革、協同組合組織などに与えた影響はけっして少なくありません。, 現にヨーロッパ諸国には社会主義政党が与党となる場合もありますし、インドのように社会主義を明記している国は今も多いでしょう。, もしかすると、社会主義の実験はこれからも続き、いつか新しい国家がまた創造されるのかもしれませんね。, 【参考文献/サイト】 北海道コロナ300人超え。でも先日北海道の友人と電話で話して、コロナが増えてて大変だねと言ったら、でも、近日、80歳近い高齢両親と、自分の家族(長男は介護の仕事)と、関東に住む妹家族、計約10人でGoToトラベルを利用して集り、GoToイートで会食する予定があるから、GoToが無くなると困る、なんて言ってました。 特にアメリカの証券会社?見たいのが手を上げていますが、... 付き合って2ヶ月。彼女から家に呼ばれ泊まりに行きました4日泊まって、光熱費請求されました。やたらめってら使ってないんですが。。払うべきですか?. ・戦争をやめて平和を取り戻すこと(平和に関する布告) 、革命期に暗躍した武器商人や軍人、政治家などの動きにメスを入れ、革命秘史、革命群像の実態を明らかにしています。ロスチャイルド家とロマノフ朝の関係が浅はかならぬものであったことも述べられており、歴史の闇の深さを感じないわけにはいきません。, 2017年はロシア革命から100年にあたる年です。ロシア革命によるソヴィエト体制は、長期の停滞を経て、100年もたずに崩壊しました。現在は国名もロシアに戻っています。帝政から社会主義を経て、現在のロシアはさらに複雑な社会になっているようです。, ロシア革命を知ることをきっかけにロシアに興味をもったら、ソビエト時代から今に至るまでの歴史に関する本も読んでみることをおすすめします。そうすることで、さらにロシア革命の歴史が面白くなるはずです。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 成田凌の人気の理由を出演作品から紐解く!実写化した映画、テレビドラマの原作の魅力も紹介. 資本主義. 世界最初の社会主義革命だった「ロシア革命」。歴史上の大事件であり、後の世界に大きな影響を及ぼしました。概要と、革命が起こった背景や影響をわかりやすく解説し、さらに理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介していきます。, ロシア革命は、資本主義の発展の遅れたロシアの、皇帝専制政治の打倒から社会主義国家が建設されるまでの連続的な革命のことを指します。1905年の革命を第1次革命、1917年の革命を第2次革命と呼び、ロシアはそれまでとは別の統治体制に移行していきました。, 第1次革命は日露戦争のさなかの1905年に起こります。「血の日曜日事件」と呼ばれる民衆のデモ隊と軍の大規模な衝突が起こると、全国で農民の反乱が相次ぎます。その混乱を収めるため、皇帝は議会の設立の勅令を出し、立憲主義に移りました。さらに、信教、言論、集会、結社の自由など市民的自由を認める譲歩をしたことから、自由主義者と一部の社会主義者が革命勢力から離脱し、事態は鎮静化しました。, 社会主義革命を目指したリーダーたちは国外に脱出し再起の時期を探りましたが、第一次世界大戦が勃発すると、ロシア全土は愛国的熱狂に沸き、それにより内政の不満は解消されていきます。, しかし、長引く戦争は国民生活に打撃を与え、しだいに皇帝は国民からの支持を失っていきました。, そして第2次革命が起こります。1917年2月(ユリウス暦)に反戦と平和を訴える大規模なストライキと暴動が全国に広がり、軍隊にも大きな反乱が生じました。皇帝ニコライ2世は捕らえられ、ロマノフ朝が倒れたのです。これを「二月革命」といいます。, 政権を握ったのは自由主義的市民を中心とする臨時政府で、労働者と兵士はこれを支持しました。二月革命は民衆が団結した成果でした。, その後、海外から社会主義者たちが帰国してくると、臨時政府に反対する「ボリシェヴィキ」と呼ばれる勢力が台頭してきます。彼らは臨時政府を倒して、自らが政権を奪取して、プロレタリア独裁を実現しようとしていました。, レーニンが指揮したボリシェヴィキは、臨時政府と対立し、二月革命の結果に不満をもつ労働者からの支持を獲得します。また軍隊の一部が同調することによって闘争に勝利し、世界史上初の社会主義政権を樹立しました。これを「十月革命」と呼んでいます。, 19世紀半ば、クリミア戦争での敗戦をきっかけに、ロシアは近代化を推し進めるため、農奴解放令をはじめとする「大改革」を始めます。, 工業化を進め、西欧の社会制度を導入しましたが、専制的な政府と自由を求める国民の対立は改善されることはありませんでした。資本主義の進展は、経済成長が活発化し貴族や資本家たちに恩恵をもたらす一方で、労働者と農民の生活水準は改善されなかったのです。, 1905年の第1次革命が起こった背景には、労働者が労働条件の改善と権利の制定、農民が地主に対して権利の拡大を求めても、皇帝が何もしないことにありました。, 労働者と農民が立ちあがったことに呼応して、自由主義者とブルジョワジーが自由を求めて加わり、全国規模の動乱になります。憲法の制定、国会の開設、政治的自由の保証、労働者の権利の制定などの要求に対し、皇帝は大幅に譲歩し、実行を約束しました。, 1917年の第2次革命のきっかけは、第一次世界大戦の戦費のため、国内の経済がインフレに陥り、生活物資がいきわたらないことで、民衆の怒りが爆発したことです。, 皇帝ニコライ2世は国民生活の窮状には関心が薄く、皇后や大臣たちに任せていました。国民の生活よりも、戦争に勝つことに力を注いでいたのです。, 国民生活の困窮には何ら手をうたず、戦争に没頭する皇帝に対し、食料を求めた暴動が起こります。それを契機に、全国で労働者とブルジョワジーが同時に専制権力に対して抗議運動を起こしました。この運動が激化し、第二次革命に進展していきます。, 1917年、国際婦人デーの2月23日の朝、首都ペトログラードの工場の数ヶ所で、女子労働者が食料を要求し一斉にストライキに突入します。これが「二月革命」の始まりでした。, 男子労働者もそれに続き、3日後には首都全体がストライキに入ります。さらに、鎮圧に向かった軍の部隊も反乱を起こして、労働者とともにストライキに合流しました。労働者・兵士の「ソヴィエト(評議会)」が結成し、団結したのです。, 国会は停止され、その代わりに国会の議長と各党代表たちは、ブルジョワジーの臨時政府を樹立し、皇帝の意向に関わりなく行動することを決めます。各省庁も接収しました。, 労働者と兵士のソヴィエトはブルジョワジーの臨時政府を認め、臨時政府は内閣を組織して皇帝に退位を求めました。皇帝ニコライ2世はこれを受け入れ、帝位を弟のミハイルに譲ることを表明。しかしミハイルがこれを拒否したため、300年に渡るロマノフ朝が幕を閉じたのです。, 臨時政府は、これまで制限されてきた政治的自由を実現させます。言論の自由、労働者の権利の保障、差別の撤廃、普通選挙の実施などを政府の活動の原則としました。, しかしその一方で、「勝利に終わるまで戦争を遂行する」と表明し、ソヴィエトと対立していきます。, 4月になるとボリシェヴィキのレーニンが亡命先から帰国します。「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、臨時政府に対して不信任、非協力の立場を明確にし、戦争については継続の中止を訴えました。, 強引に戦争を続ける臨時政府は、内部でも分裂が生じ、しだいに国民のからの支持を失っていきます。, ソヴィエト内部では「平和、土地、パン」を明確に唱えるボリシェヴィキが指示を得て、少数派から多数派へと変化していきました。, 臨時政府が信頼を失いつつあるなかで、ソヴィエト中心の臨時政府樹立を求める声が強くなっていきます。, ソヴィエト内で力を持ちはじめたボリシェヴィキは、武装蜂起して臨時政府を打倒し一気に全権力を掌握するプランを練りあげました。ボリシェヴィキのトロツキーがソヴィエトの委員長になり、ソヴィエト防衛を掲げて軍事革命委員会を設置します。, これに対し臨時政府は、軍事委員会に反撃を試みますが、10月23日、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛隊」が首都を制圧しました。, 翌25日、軍事委員会は声明を出し、臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したこと発表。その後ボリシェヴィキが樹立した臨時政府には他の社会主義勢の参加は拒まれ、ボリシェヴィキの単独政権が樹立されます。, 十月革命は反議会、反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事委員会による武装蜂起であり、クーデターでした。二月革命のような、熱狂した民衆が路上に溢れる光景はなかったのです。, ボリシェヴィキ政権により休戦協定が締結されると、戦争から離脱することができた兵士が故郷に帰ります。その大半は農民でした。ボリシェヴィキの支配は農村にまでは届いておらず、彼らはボリシェヴィキ政府に反対し、武力蜂起をしました。, これに対して1918年1月、トロツキーは反ボリシェヴィキ軍に対抗するために、赤衛隊に代わる軍隊として赤軍を組織して軍事力を強化しました。, しかし、かつてのロシア帝国の将軍たちが指揮する反ボリシェヴィキ軍に対し、急ごしらえの赤軍は思うように戦うことができません。しだいに押されるようになり、赤軍の勢力範囲はモスクワを中心とするロシア中央部の地域に包囲されてしまいます。, 一方でロシア革命が再び起こることを恐れたイギリス、フランスをはじめとした列強各国も、軍隊を派遣します。反ボリシェヴィキの連合国は、3月にはイギリス・フランス軍がフィンランドに近いムルマンスクに上陸、8月にはアメリカと日本が共同でシベリアに出兵しました。, この内戦と干渉戦争は長期化し、しだいに農民たちはボリシェヴィキ側に傾いていきます。農民から食料を徴発する赤軍は嫌われていましたが、地主が再び力を持つよりはましだと考えるようになったからです。, 赤軍は明確な土地政策を示し、農民の支持を取り込むことに成功。反転攻勢に打って出て、1919年10には各地を占領していた反ボリシェヴィキ勢力は撤退を余儀なくされます。これ以降、大規模な戦闘はなくなり、1920年10月には内戦が終結します。, 内戦の最中、ソヴィエト政権は国内の秩序回復のため、警察の権力を強化し、「戦時共産主義」という経済政策に移行していました。チェカと呼ばれる警察権力は強化され、ボリシェヴィキの政敵を一掃する政治テロが平然とおこなわれるようになります。1918年7月には、監禁されていたニコライ2世とその家族を銃殺します。, 戦時共産主義は、農民から強制的に食料を供出させ、食料危機からの脱出を図ったものですが、農民から激しい反発を招きました。しかしチェカがそれを抑え込み、ロシア全土から自由な空気は薄れていきました。, ロシア革命の影響が最初に見られたのは、ドイツの政治団体「スパルタクス団」の反乱です。, 1918年11月に起きたキール軍港での水兵たちの反乱を発端としたドイツ革命により、皇帝が退位し、ドイツ共和国が誕生しますが、その翌年、スパルタクス団を中心としたドイツ共産党が社会主義革命を起こそうと蜂起したのです。しかし革命は失敗し、指導者のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらは殺害されています。, ドイツ以外にも、ロシア革命に影響を受けて、社会主義運動や独立運動、反帝国主義運動が起こりました。代表的なものとして、ハンガリーの社会主義革命(1919年)、エジプトの反英独立闘争(1919年)、インドのガンディーによるの反英不服従運動(1919年)、トルコ革命(1922年)などがあります。, またロシアでの革命を世界へ波及させることを目的として、1919年3月に「コミンテルン」が結成され、各国で共産党の設立が相次ぎました。中国共産党の成立(1921年)、日本共産党の成立(1922年)、モンゴル人民共和国の成立(1924年)、インドシナ共産党の成立(1929年)が代表的な事例です。, 革命以降のロシアについて語る際に欠かせないのが、ヨシフ・スターリンという人物です。, 1878年に生まれ、15歳のころから革命運動に参加しています。レーニン率いる十月革命にボリシェヴィキとして関わり、その後ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立にも深く携わりました。, 1924年にレーニンが亡くなると、トロツキーとの後継者争いに勝利。「一国社会主義論」を唱え、国の指導者として独裁体制を築いていくのです。, 彼のやり方に反対する者に対しては「大粛清」という摘発をし、政府軍人であろうとも処刑あるいは追放をしていきました。, 実は彼の本名はジュガシヴィリ。スターリンは「鋼鉄の人」を意味する筆名で、その名を体で表していた人物でした。, 本書には、当時の写真やポスター、新聞と、それに掲載されていた風刺画がなど多くの画像が収録されています。, ロシア国民のさまざまな層の目線を意識して資料が引用されているので、文章を読むより先に、感覚的に革命当時の雰囲気が伝わるように編集されています。, 二月革命の章では、群衆の様子を写した写真と、兵士たちの記念写真が多く、民衆と軍隊が一致団結して二月革命を成功させたことがわかります。, 強力な指導者がいわたけではなく、本当に切羽詰まった民衆が、自然発生的に革命を起こしたことが想像できるのです。, ページをすすめると十月革命の章になりますが、二月革命の章と比べると民衆の影が薄く、目立つのはレーニン個人の姿です。レーニンが皇帝や貴族たちを箒で掃除している風刺画や、彼が演説をしている絵などがあります。, このことは同じ年に起こった2つの革命の性格の違いを端的に表しており、著者の意図が伺えます。ソビエト崩壊後に書かれていることから、ロシア人自身もあの革命を以前のように礼賛することができなくなっていることがわかる点も、興味深いところでしょう。, 本書は全2巻からなり、1巻では、主として二月革命の様子が、2巻には十月革命の様子が描かれています。, 著者のトロツキーは、十月革命で大活躍したレーニンの同志です。ロシア革命にはボリシェヴィキとして参加。レーニンに影響を与えていた人物として知られています。十月革命ではその雄弁さでペテルブルグ要塞の守備隊の兵士をボリシェヴィキ側につかせ、レーニンを喜ばせました。, そのようなトロツキーは、本書で二月革命のことを「不思議な革命」だと評価しています。, 当時のロシアは、第一次世界大戦が起き、一部の資本家を除いて、ロシア国民のほとんどは窮乏生活を強いられていました。皇帝は求心力を失い、労働者と兵士による反乱が起きて、専制を続けていた皇帝が退位して臨時政府が発足します。, しかしその臨時政府は、資本家や地主を中心としたものでした。これでは皇帝がいなくなっただけで、依然とあまり変わらないようにトロツキーには見えたのです。, トロツキーの目線が勤労者や農村出身の兵士などの立場に近く、客観的に時の権力闘争が描かれています。, ロシア革命から100年後に出版された本書は、最終的な革命の勝利者である社会主義者たちが排除し、表舞台から追い出されてしまった人々について書かれています。, 歴史は、勝者側が語る物語であるという側面は否めません。本書のように別の角度から光を当てることは、その当時を生きた人々を甦らせ、私たちを真実に近づけてくれます。, この本の素晴らしいところは、そのようなアプローチを試む労を惜しまず、できるだけ多くの人々に光を向けていることです。, 立憲主義者・自由主義者の存在は、社会主義者側から見れば、革命運動にとって障害になる存在でした。彼らは二月革命では熱狂した民衆の支持を集め、二月革命後の臨時政府では立憲主義者が首班となり、自由主義者の資本家や知識人も参加しています。, この臨時政府は自由主義だったので、さまざまな党派の寄り合いで動き出します。話合いで物事を決めようとしたうえに、資本家や民衆の意向にも配慮しなければならず、運営はきわめて困難でした。首班は早々に辞任してしまいます。, 後を継いだのは社会革命党のケレンスキーでしたが、ボリシェヴィキの勢力拡大を抑えることはできませんでした。そして十月革命が起き、ボリシェヴィキの独裁政権が樹立されます。, 議会での議論による調和を重視する民主的な人々が、実力行使により政権を奪取する者たちにやすやすと征服されてしまった悲劇の歴史を、本書では丹念に調べあげています。, この本では、なぜボリシェヴィキの革命が成功したのかについて、さまざまな資料を再検証し、巧みな手法によって彼らが民衆の支持を獲得していったことを明らかにしています。, レーニンは、第一次世界大戦への参戦によって困窮した労働者や農民、そして厭戦気分の兵士をソヴィエトに吸収するため、まずは反戦運動を展開する戦略を実施しました。, 亡命先から帰国した彼は「4月テーゼ」を発表し「戦争をやめろ!」「臨時政府を倒せ!」「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、労働者と兵士の支持を得ます。戦争を倦んでいた民衆には理解しやすく、兵士たちのあいだにはすぐにでも蜂起したいという声が充満しました。, 戦争を終わらせることができない臨時政府は信用を失い、レーニンの狙いどおりにスローガンは民衆に浸透し、彼らの希望はボリシェヴィキに移っていったのです。, 一方でレーニンが目指す「共産主義革命」を民衆が理解していたわけではありません。その思想に共鳴したのではなく、現臨時政府に対する失望の強さから、臨時政府に強固に反対するボリシェヴィキを受け入れただけだったのです。, 理念に賛同した「大衆」によってはじめられた解放への道のりが革命であるのならば、臨時政府を武装蜂起によって打倒した十月革命は、革命ではなくボリシェヴィキのクーデターだったのではないか。, つまり、社会的に現実的な基盤を持たないひと握りの狂信的な集団が、社会の混乱に乗じて政権を乗っ取ったといえるのではないかと、読者に問いかけています。, 理想の国家を作り、民衆が生き生きと生活できる社会を作ろうという動機から始まったはずが、いつの間にか権力を持つための活動に変わってしまい、他の党派や宗教家たちを処刑するようになってしまう、なんという皮肉な結果でしょうか。, 本書ではさらに