Sorry, you have Javascript Disabled! 埼玉県比企郡嵐山町の火災・火事に関する治安情報をまとめたページです。火災・火事・放火に多い体格・風貌・服装などの特徴、最新の事件一覧などが確認できます。また、地図・マップでの表示に切り替えることもできます。 1 学校のまわりのようす  学校のまわりのようすは、どんなようすでしょうか。校しゃのおく上や高いところへのぼってながめたり、みんなで出かけていって、しらべてみましょう。, (1)しらべるじゅんじょ ①学校の北がわには、どんなものがみえますか。 ②学校の南がわには、どんなものがみえますか。 ③学校の東がわには、どんなものがみえますか。 ④学校の西がわには、どんなものがみえますか。 ⑤みたことをスケッチしたり、気づいたことをメモしたりしておきましょう。  ●おおきなたてもの、道ろ・川・橋・鉄道など、めじるしになるものをかきます。  ●田・畑・丘など、どこにおおいかをかきます。  ●そのほか、ぎもんに思ったことをかきます。   (れい この森のむこうはどうなっているかな), (2)絵地図をかく ①方位(北や南、東や西)をよくしらべ、地図の上が北になるようにします。 ②はじめに、学校をまん中にかきます。 ③おもな道ろ・川・橋・鉄道などをかきます。 ④役場・農協・中学校など、おもなたてものをかきます。 ⑤店やじゅうたくをかきます。 ⑥田や畑や・丘などをかきます。 ⑦そのほか、神社・寺などめだつものをかきます。 ⑧色わけしてぬります。, 一 わたしたちの嵐山町学校のちかくのようすを見学し、教科書の図をさんこうにして、絵地図を作りましょう。地図やしゃしんなどをつかったり、見学したりして、嵐山町のようすをしらべましょう。, 〔三年〕一 わたしたちの嵐山町1 学校のまわりのようす2 嵐山町のようす (1)土地のようす (2)田・畑・山の多いところ (3)家や工場の多いところ, 二 ものをつくる人々のしごと1 嵐山町の人々のしごと (1)家のしごと (2)人々のしごと2 のうかのしごと (1)らく農のしごと (2)ようさんのしごと (3)米と麦つくり (4)くだものや野菜つくり (5)農業の機械化と農協の役割3 工場のしごと (1)ある工場のようす (2)工場の見学, 三 わたしたちのくらしと商店 (1)駅前商店街 (2)商店の工夫 (3)家のひとのかいもの, 四 県内のよその土地のくらしと嵐山町1 都幾川にそって土地のようすをしらべる (1)都幾川をさかのぼって (2)都幾川をくだって2 嵐山町の県内のいち3 都幾川村のようす (1)土地のようす (2)人々のしごと4 川島町のようす (1)土地のようす (2)人々のしごと5 嵐山町をよその土地と比べて, 五 嵐山町のうつりかわり1 ふえた住宅 (1)嵐山町ができたころ (2)このごろのようす2 歴史の町嵐山 (1)文化財めぐり (2)文化財をまもる3 これからの嵐山町, 〔四年〕一 住みよいくらし1 ごみのしまつ (1)ごみあつめ (2)ふえてきたごみ (3)嵐山町の計画と実行 (4)町や村の計画と協力2 上水道づくり (1)上水道づくり (2)ふえてきた上水道 (3)嵐山町の計画, 二 安全なくらし1 火事をふせぐ (1)嵐山町の火事 (2)火事をふせぐしくみ (3)火事がおこって (4)町や村の協力2 交通事故をふせぐ, 三 ゆたかなくらし1 中央公民館とわたしたち (1)中央公民館ができるまで (2)中央公民館ができてから2 地域の分館3 町営グランド4 歴史資料館5 婦人教育会館, 三年生の社会化では、おもに、わたしたちのすむ町のようすや、わたしたちにかんけいのある村や町について勉強します。ですから、嵐山町にすんでいるみなさんは、嵐山町のことや、となりの町や村について勉強するわけです。 嵐山町の人々は、いろいろなしごとをしています。しかし、みんな力をあわせ、嵐山町をすみよい町にしようとつとめています。この本をつかって、それらのようすを勉強し、この本に出ているよその町や村とくらべてみたり教科書に出ている町や市ともくらべてみましょう。 四年生では、嵐山町をすみよい町にするため、町ではどんなことをしているか知り、よその村や町とどう協力しあっているか勉強します。また、嵐山町のむかしの人々が、すみよい町にするため、どんな努力をしたかを調べます。そして、嵐山町をよい町にするため、よその町や村、むかしのことをしる目を大きくみひらくもとにしましょう。, 社会科副読本「らんざん」によせて                 教育長 阿部 富育 わたくしたちの嵐山町は、面積約三十平方キロメートル、埼玉県のほぼ中央に位置し、美しい自然と、いくたの歴史的いさんに恵まれたすばらしい町だと思います。 そこに住む人たちも、昔からの人、新しく町にこられた人、みんなが力を合せて、住みよい町づくりのためにたいへん努力をしてきました。 みなさんが、自分たちの郷土をしっかり勉強するために、町内の社会科の先生がたのおほねおりで、この本ができました。 この「らんざん」をとおして、町のしくみ、町のうつりかわり、町で生活している人たちのようすなどを、よく勉強し、健康で思いやりのある、心ゆたかな人になり、いつまでも美しく、住みよいふるさとにするようにどりょくしてください。, むかし一〇〇〇年以上前 千手堂千手院慈恵大師により開かれる 八〇〇年以上前 木曾義仲 大蔵の館に生まれる 七〇〇年以上前 畠山重忠菅谷の館を立って鎌倉に向い二俣川にて殺される 一五〇年以上前 狂歌師 元杢網八十一才にて歿す明治  一八七三   杉山小学校ができた(学校のはじめ)  一八八六   埼玉県になった  一八八九   旧村合併して菅谷村(九ヶ村)七郷村(七ヶ村)となる  一九〇九   菅谷村駐在所ができる大正  一九二一   菅谷地区に電気が入る  一九二三   東上線が通り武蔵嵐山駅ができた         関東大震災で大きなひがいをうけた昭和  一九二九   畠山重忠像が菅谷館跡に建つ  一九三一   菅谷村に電話開通(一三本)  一九三五   菅谷に大火あり、菅谷尋常高等小学校も類焼する  一九三八   菅谷小学校今の位置に建つ(工費五万五千円)*  一九四一   太平洋戦争がはじまる  一九四七   菅谷 七郷両中学校設立される  一九五五   菅谷村・七郷村が合併して菅谷村となる  一九五八   鎌形小学校給食開始(村内初めて)  一九六一   役場新庁舎落成(鉄筋二階建)   〃     武蔵嵐山駅より東松山へバス開通   〃     嵐山カントリー(ゴルフ場)開場  一九六二   菅谷小学校給食開始  一九六三   武蔵嵐山古里間にバス開通  一九六四   菅谷幼稚園開園   〃     村営水道給水開始   〃     菅谷中学校・七郷中学校給食開始  一九六五   菅谷中学校体育館落成  一九六七   嵐山女子高校が開校され一六二名が入校する   〃     菅谷村町制を施行して嵐山町となる  一九六八   菅谷中学校プールができる 七九五万円  一九六九   七郷小学校プールができる 一七三五万円  一九七〇   自動電話局開設となる  一九七一   町立幼稚園 東昌会館を借用開園する  一九七二   菅谷小学校新築落成 一三七八〇万円  一九九二   大妻女子大学嵐山女子高校となる  一九七三   全町水道給水を始める   〃     町立幼稚園完成  一九七四   七郷小学校改築工事落成 一億七千六五万円   〃     菅谷小学校プール竣工  一九七五   菅谷中学校落成 四億五〇〇万円  一九七六   コロニー嵐山郷   〃     歴史資料館落成, *:新築の校舎に卒業学年の児童が移動したのが1938年(昭和13)9月から、全校児童が新校地に移ったのが1939年4月からである。, 六、これからの嵐山町 わたしたちの嵐山町は、今から二十一年前(1955)、菅谷村と七郷村がいっしょになって、大きな菅谷村になりました。その後、すむ人がだんだん多くなって、九年前(1967)町になりました。この二十一年前の間、嵐山町はずいぶんかわってきました。 今までの嵐山町では、米作りやむぎ作り、ようさんなど、のうぎょうが中心でした。しかし、この頃は、のうぎょうをする人よりつとめにでる人の数の方が多くなり、のうかのようすもだいぶかわってきました。 のうかでは、米作りやようさんをするだけでなく、野菜やくだものを作ったり、かちくをかったりすることが行なわれるようになりました。一年に一どだけの米作りでは、しゅう入がすくなからです。 そのために、新しいぎじゅつをとり入れたり、みんなで力を合わせたり、いろいろくふうしています。役場やのうきょうでも、このことをいっしょうけんめい考えています。 町のあちこちにじゅうたく団地や工場ができ、また、菅谷館跡には県立歴史資料館ができました。全国婦人教育館の建設工事も進められています。 バイパスも作られ、交通はもっともっと便利になると思われます。しかし、交通事故、自然はかい、公害などがこれからの問題としておこってきます。 美しい自然、数多くの史跡、文化財に囲まれた嵐山町は、これから新しい産業地として、また文化の中心地として、さまざまの問題をかいけつしながら大きく発展していくことでしょう。, わたしたちは、この嵐山町をいつまでも美しくて住みよい、楽しいふるさとにするようにどりょくしましょう。 みなさんが考える『よい嵐山町』というのは、どんな嵐山町でしょうか。 また、そのような嵐山町になるようにするには、みんながどんなことをしたらよいのでしょう。よく話し合ってみてください。, ・人口の変化 団地 工場 わたしたちの町の人口について考えてみましょう。人口というのは、おとなもこどももそしてとしよりもあかんぼうも、町にすんでいる人ぜんぶの人ずうです。 人口はまい年すこしずつかわっていますが、長いあいだのかわりかたのようすをみると、とくべつなできごとがあったときのほかは、すこしずつふえていくようです。 下のグラフは、およそ四十五年ぐらいまえからのわたしたちの町の人口のかわってきたようすをしるしたものです。 町の人口がどのようにかわってきたかグラフをみながら、みんなではなしあってみましょう。 昭和三十六年(今から十五年ほど前)に、平沢に嵐山町ではじめて、じゅうだく団地ができました。 菅谷・川島・広野地区などにもつぎつぎにじゅうたく団地ができ、昭和四十五年(今から六年ほど前)に志賀地区の田んぼをうめたてて、そこに大きなじゅうたく団地ができ、きゅうげきに人口がふえました。そこにすむ人たちの多くは、むさし嵐山駅から東松山や東京方面へつとめに出かけます。 また、工場もたくさんできました。明星食品、昭和機器、嵐山プレス、その他いろいろな工場があり、それらの工場へつとめる人も多くなっています。 このように人々のしごとは、いろいろにかわってきました。, ・町村合併 明治のはじめ(一〇〇年ぐらい前)今の鎌形は、鎌形村内郷、鎌形村植木山とわかれていました。どちらも小さい村で、家の数も三〇戸たらずの小さな小さな村でした。小さな村が別々に仕事をしていることは、なにかと不便なので、合併して鎌形村となりました。 古い名前の村が菅谷村、七郷村となったのは、明治二二年(今【1976】から八十七年ほど前)です。昭和三十年(今【1976】から二十一年ほど前)に、菅谷村と七郷村が一しょになって菅谷村が生まれました。また、昭和四十二年(今から九年ほど前)に、町にすむ人達が多くなったので、菅谷村を嵐山町としました。今の嵐山町ができるまでには、長い年月がかかりましたね。, ・学校のうつりかわり 町には、三つの小学校と二つの中学校があります。なかでも、三つの小学校は、それぞれふるい歴史があり、世の中の役にたつりっぱな人びとがそつぎょうしています。 わたしたちの学校の歴史を年表でしらべましょう。, 年次       ことがら明治 六年(1873) 杉山小学校ができた  一二年(1879) 杉山小学校を新しくつくった  一二年(1879) 吉田小学校ができた  一九年(1886) 昇進学校ができた(杉山・吉田学校がっぺい)  一九年(1886) 城山尋常高等小学校ができた(千手堂)  二二年(1889) 昇進学校が七郷尋常小学校となる  二五年(1892) 宗信寺尋常小学校ができた(鎌形)  二五年(1892) 校舎を大字菅谷東側にうつす  三三年(1900) 城山尋常高等小学校となる  四一年(1908) 菅谷第一尋常高等小学校となる  四三年(1910) 七郷尋常高等小学校となる大正 六年(1917) 菅谷第二尋常小学校やける。七年に新しい校舎できる  一一年(1922) 鎌形尋常高等小学校と名前をかえる昭和 五年(1930) 七郷小学校二階建校舎となる  一四年(1939) 菅谷村の火事で学校がやけた(1935)ため、新しい学校ができる  一六年(1941) 菅谷・鎌形・七郷国民学校となる  二二年(1947) 菅谷・鎌形・七郷小学校となる  三〇年(1955) 菅谷村立菅谷・鎌形・七郷小学校となる  四二年(1967) 嵐山町立菅谷・鎌形・七郷小学校となる  四七年(1972) 三階建鉄筋校舎にうつる(菅谷小)  四九年(1974)   〃        (七郷小), (4)町へのあゆみ・のりもののうつりかわり むかしは、ほとんどのりものはありませんでした。遠くの神社やお寺におまいりするにも、みな歩いて行きました。 そのころは、道もせまく、あかりもありませんでした。またとちゅうで、病気や大水によるきけんも多かったのです。このため、安心して旅ができるように、道のあちらこちらにこうしんとうやじぞうさまなどをまつりました。 どんなところにあるか気をつけて見てください。いろいろな石のとうがあるところが、むかしの大どおりなのです。馬やかごにのって旅をしたのも、このころのことです。 今から九十三年ほど前(1883)から熊谷を汽車が通るようになりました*。 東上線は、大正十二年(1923)、今から五十三年ほど前から走るようになりました。石たんをもやした汽かん車で、東京まで二時間ぐらいかかったそうです。それでも、熊谷まであるかずに嵐山駅から東京に行けるので、村の人たちはたいへんよろこんでいました。 バスは、大正のはじめごろ一時走りましたが、のる人が少ないのでやめになり、大正のおわりごろに、ふたたび走るようになりました。 まがった道をなおしたり、新しい道が作られたりして、嵐山町の交通もこれからますます便利になることでしょう。, *:1883年(明治16)7月28日に上野 ― 熊谷間に仮営業を開始した日本鉄道。上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷駅が作られた。, (3)むかしのくらし 家はみな、わらぶきのやねで、ほとんどの人がのうぎょうをしてくらしていました。 のうかには、だいどころという広い土間があり、たべものをにたりやいたりするのにつかう、大きないろりがありました。あがりはなには、てつびんをかけた火ばちがおいてあり、夜はここで、ランプをともし、わらしごとや、はりしごとなどをしていました。 だいどころのすみには、たいてい馬屋があり、多くの家で馬をかっていました。 庭は、いねやむぎをほしたり、いろいろなしごとをする大切なところでした。ですからほとんどののうかに、日あたりのよい、風があたらない、広い庭がありました。 このころつかわれたどうぐには、せんばこき、くるりぼう、からうす、とおみ、石うすなどがあります。かいこもたくさんかっていたので、まぶしおりき、かいこかご、もみがらやきのどうぐなどがどこのうちにもありました。 はたおり、糸くり車、あんどん、ランプ、ちょうちん、田ころがし、馬ぐわ、くわつみなど、むかしのどうぐをあつめて、何につかったものか、おじいさんやおばあさんにお話をきいてみましょう。 ぼんと正月、菅谷神社のおまつり、根岸の観音様、鬼鎮神社の節分祭、八宮・兵執神社のささらなどは、人々の楽しいおまつりのひとつで、ふだんのしごとのつかれをなおしたり、しぜんや神仏への心をあらわしたものです。 このころは、お店もよろずやが一けんぐらいしかありませんでした。このお店はなんでもうっていたので、村の人たちみんなが利用しました。, (2)町の名所めぐり わたしたちの町には、けしきがよいのでゆうめいな武蔵嵐山や、菅谷館跡など、鎌倉時代(七〇〇年ぐらい前)からの数多くの史跡、文化財があります。また、美しい自然と歴史をたどるハイキングコースもあります。 春はお花見、夏はキャンプ、川遊び、秋はきのこがり、ぶどうがり、いも掘りなどでにぎわいます。, 五、町のうつりかわり  (1)むかしの嵐山町(一〇〇年ほど前) むかしの嵐山町は、菅谷村 志賀村 平沢村 遠山村 千手堂村 鎌形村 大蔵村 将軍沢村 根岸村 太郎丸村 広野村 勝田村 越畑村 吉田村 古里村 杉山村 などと今の大字が村とよばれ、小さくわかれていました。 人びとはおもにのうぎょうでくらしをたてていました。山をかいこんして畑にしたり、ひくいところを田にしたり、沼や用水路をつくったりして、じぶんたちのせいかつがゆたかになるようにどりょくしてきました。, (2)通信・有線電話 有線は、農業協同組合によるもので、嵐山町内にかけられるほか、他の市町村にもつなぐことができます。また、一度に町内の人にお知らせができるなどの便利な点があります。現在、菅谷では約一〇〇〇戸、七郷では約六〇〇戸の家が、はいっています。, ・ふつう電話 ふつう電話は、どこにもかけられるので、とても便利です。さい近ふつう電話の入っている家が多くなり、嵐山町では約三五〇〇の家がはいっています。 嵐山には、菅谷に無人の自動交換局があります。, ・ゆうびん局 ゆうびんの受け入れ、はいたつ、電ぽうなどの仕事は、嵐山ゆうびん局でしてくれます。また、ちょ金、小づつみ、かわせのしごともしています。 嵐山ゆうびん局では、局長さんのほか二〇人あまりの人がはたらいています。いつもゆうびん局にいて、しごとをする人が一〇人。ちょ金や年金の集金をする人が四人。手紙や、小づつみをはいたつしてくれる人たちです。 また、ゆうびん局では、毎日約三〇〇〇通の手紙を、集めたりはいたつしたりします。小づつみは、一日に約四〇個ほどあつかいます。 ゆうびん局で一番たいへんなことは、暮れからお正月にかけての年賀ゆうびんだそうです。楽しいお正月も、いつものしごとの三倍くらいのいそがしさで、アルバイトも使ってやりきるそうです。わたしたちが、うれしい年賀状を受けとれるのも、ゆうびん局のおじさんたちのたゆまぬ仕事があるからなのです。, わたしたちの町らんざん 33 町のうつりかわり 町へのあゆみ 人口の変化・団地・工場 1977年, わたしたちの町らんざん 32 町のうつりかわり 町へのあゆみ 町村合併 1977年, わたしたちの町らんざん 31 町のうつりかわり 町へのあゆみ 学校のうつりかわり 1977年, わたしたちの町らんざん 30 町のうつりかわり 町へのあゆみ のりもののうつりかわり 1977年.